
Introduction
70年代末から80年代の社会主義体制時代のポーランドで製作された、ポーランド映画最大の秘密とも言える衝撃の暗黒SF4作。戒厳令が敷かれた状況下、厳しい検閲を潜り抜けて生み出された驚異的な作品群。監督は常にポーランド当局と衝突、目をつけられてきたディストピアSFの先駆者ピョトル・シュルキン。強烈な風刺と超現実主義の極致ともいえる作風で腐敗した権力と官僚制のもとで生きる人間の悲惨な姿を映し、《全体主義からの脱出》というテーマを描く。シュルキン監督は「検閲は贈り物であり、明白なものを超えて寓話や隠喩を探すことを後押しした」と語っている。
当時、本国では一時上映禁止、シュルキンはヨーロッパ最大のSF・ファンタジー・ホラーの祭典ユーロコンの最優秀SF映画監督賞を受賞するも、作品は商業的にポーランド国外に知られることなく、監督は2018年に死亡。ほぼ全西側諸国の人々がその存在を知ることのなかった、おそるべき共産圏映画が日本初上陸を果たす。彼らはどこから来て、どこへ行くのか。決断、疑念、遭遇、決別──そして終焉。
これは、傾きかけ混沌とした現代に向け、過去から届いた世界の先行終了予告でもあり、人類への悲哀と愛情に溢れたメッセージでもあるだろう。ピョトル・シュルキン監督が見ていたものが見えたとき、一層大きな絶望に包まれることになる。
Lineup

監督:ピョトル・シュルキン 脚本:ピョトル・シュルキン、タデウシュ・ソボレフスキ
撮影:ジグムント・サモシウク 音楽:ジグムント・コニェチニー、ユゼフ・スクジェク
出演:マレク・ヴァルチェフスキ、クリスティナ・ヤンダ、ヨアンナ・ジュウコフスカ、アンナ・ヤラチュヴナ、ヤン・ノヴィツキ、ヴォイチェフ・プショニャク
男は殺人容疑で警察の取り調べを受けるが、犯罪の詳細どころか自分の人生さえ思い出せない。彼は狂人や錯乱した歯科医、殺人的な医師、そして鋳鉄製のオーブンの壁の中に人間の創造の秘密があると信じる科学者たちの世界に戻される。自分が何者なのか、人間とは何かを知ろうとする男の旅は、彼ら全員と交差することになる。人類進化のために作られる人造クローン人間の厳しい現実を描く暗黒クローン人間SF。

監督・脚本:ピョトル・シュルキン
撮影:ジグムント・サモシウク 音楽:イェジー・マクシミウク、ユゼフ・スクジェク
出演:ロマン・ヴィルヘルミ、クリスティナ・ヤンダ、マリウシュ・ドモホフスキ、イェジー・ストゥール、マレク・ヴァルチェフスキ
火星人が着陸したが、恐れることはなかった。少なくとも、テレビ司会の男は人々にそう伝えてきた。しかし、火星人が到着して間もなく、男のアパートは荒らされ、妻は誘拐された。毎晩のテレビの台本も変更された。男の目に映るものは、毎晩観客に語っていることともはや一致しない。火星人は男が信じていたほど善良なのか、それとも男は地球全体を危険にさらすもっと邪悪な陰謀に利用されているのか? 火星人襲来の厳しい現実を描く暗黒異星人侵略SF。

監督:ピョトル・シュルキン 脚本:ピョトル・シュルキン、タデウシュ・ソボレフスキ
撮影:ジグムント・サモシウク 音楽:ジグムント・コニェチニー、ユゼフ・スクジェク
出演:マレク・ヴァルチェフスキ、クリスティナ・ヤンダ、ヨアンナ・ジュウコフスカ、アンナ・ヤラチュヴナ、ヤン・ノヴィツキ、ヴォイチェフ・プショニャク
世界は核戦争で荒廃、惑星は凍りつき、放射線はドームの外に踏み出す者や物をすべて殺してしまう。男はアークとしてのみ知られる謎の宇宙船からの救出を待ちながら集まった人類の最後の生き残りたちを統制する。男は群衆の間を歩き回り、士気の低下を防ぎ、売春婦を口説き、反乱を鎮圧し、時には飢えた人々に食事を与えるなど、通常の日々の仕事をこなしている。しかしドームの真の邪悪な性質が明らかになるにつれ、男は人類を救う価値があるのか自問せざるを得なくなる。世界崩壊後の厳しい現実を描く暗黒放射能SF。

監督・脚本:ピョトル・シュルキン 撮影:エドヴァルド・クウォシンスキ
出演:ダニエル・オルブリフスキ、イェジー・ストゥール、カタジナ・フィグラ、マリウシュ・ブノワ、ヘンリク・ビスタ、マレク・ヴァルチェフスキ、レオン・ニェムチク、ヤン・ノヴィツキ
男は巨大宇宙ステーションの囚人で、他の囚人同様、遠く離れた惑星の探査にボランティアとして参加させられる。オーストラリア458惑星に着陸すると、男は英雄として歓迎され、セックス、酒、暴力のすべてを満喫する。しかし、男は自由には高い代償が伴うことに気づく。それは、男の暴力的な生活が惑星の住民の楽しみのために生中継されることだった。男の脱出方法はあるのか? それとも、運命は決まっているのか。地球から脱出した先に待ち受ける厳しい現実を描く暗黒新惑星SF。


不気味で不安な場面が基調の「ゴーレム」(1979年)を手はじめに「文明の終焉」4部作を制作したピョトル・シュルキン監督を私は不覚にも知らなかった。ナチスの支配を脱したポーランドはソ連圏の社会主義国となり「もうひとつの全体主義」のもとに置かれた。そこに暮らした国民は、日本でいえば戦前の軍国主義体制で「隣り組」の密告社会のように、息苦しく、しかし逞しく生きていた。その芸術的昇華がシュルキン監督の作品群だ。1979年といえば監督は29歳。80年から続く自主労組「連帯」の誇り高き闘いの空気を同時代に深く吸っていたことは容易に想像できる。心躍っていただろう。検閲に争いながら、寓話的なSF作品として現実に深く、深く杭を打った原点がこの作品にあった。
私たちの世代は、と限定していいのだろうか。ポーランド映画といえば、まず浮かぶのは、アンジェイ・ワイダ監督だ。ナチス・ドイツの侵略に抵抗した青年を描いた「地下水道」(1957年)が個人的に強く記憶に残っている。ワルシャワを訪れてレジスタンスの痕跡を歩いたのも、歴史知識からではなく、映画の画面を追体験したかったからだ。「灰とダイヤモンド」(1958年)「大理石の男」(1977)などなど。「戦場のピアニスト」(2003年)や「関心領域」(2024年)もポーランド映画に入れていい秀作だ。それらを見終えていつも思うのは日本映画との対比だった。現代史のなかを生きた人間を描くことにおいて、たとえばナチス・ドイツの歴史的犯罪をテーマとした作品が毎年何作も公開されるのに、この日本の映画界は、優れたドキュメンタリーはあるが、史実を描く物語としてはあまりにも貧困だ。
だからシュルキン監督の作品が新鮮だ。しかしなぜ「ウブ王」(2003年)で映画制作から去ったのだろうか。世界各国で民主化運動を担った者たちが、民主化達成後に堕落していったことに落胆する群像がいたことを思い浮かばせる。〈僕はもうかなり前から映画のプレミアにも行かないし、どんな「パーティ」にも行かない。同業者にも会いたくないんだ。みんなすっかり道に迷ってしまった……〉(2012年)。62歳の心の声だ。ソ連型全体主義を脱したものの、ポーランドは中道右派政権のもとでいまにつづく「人間の顔」を失っていった時代である。「不服従」の精神は、強固な意志として黙することを選択したのではないか。そしていまの日本。ピョトル・シュルキン監督の「反時代」4部作が鈍く輝くときに私たちは生きている。
我が母校でも教鞭をとっていたピオトル・シュルキン監督。映画学校のアーカイブで彼の作品を観て、文字どおりぶっ飛んだ記憶がある。
たぶん、多くの人が思い浮かべる「ポーランド映画」とは正反対にある映画だろう。重厚? 厳粛? 内省的? ——いやいや、もっと軽やかで、もっと滑稽で、そして異様にスタイリッシュだ。
ピョトル・シュルキンのSF映画4部作は、1980年代のポーランド映画界において驚くべき偉業を成し遂げました。監督はこれら作品群において人々の個性やプライバシーを剥奪する社会を批判しながらも、グロテスクかつ夢幻的、幻想的な独特の表現を用いることで当時の検閲の目をかわすことに成功したのです。彼の映画、とりわけ未だ戒厳令下にあった1983年に上映された最も有名な『宇宙戦争 次の世紀』を鑑賞した当時のポーランド人たちは、そこに監視や統制、基本物資の配給が日常であった当時の現実が描かれている様子を目の当たりにしました。
今日シュルキンの映画を観る現代人は、それらが現実世界をデフォルメして映し出した作品であるとは夢にも思わず、単なるSF映画として鑑賞するでしょう。しかしともすると、私たちはこれら映画が発する警告について思いを巡らすときに来ているのかもしれません。それが再び現代世界を反映したものになるような状況に陥らないために。
どうぞ映画をご堪能ください。
『ガガ 英雄たちに栄光あれ』
ディストピアから脱出できない――鉄のカーテンの外には、あるいは息苦しい地球の外には、別のディストピアがあるだけだ。囚人惑星から英雄的な開拓者として一人の男が送り込まれた惑星は、抑圧的・官僚的・スペクタクル的な社会だった。広場で串刺しにされることに同意する「形式的な書類」への署名を求められ、処刑される姿がテレビで放映されないと英雄にはなれないと言われる。確かに《この惑星》はディストピアだ。しかし、どの惑星がディストピアだろうか? 男が降り立った惑星は、実は《この地球》ではないのか。
『オビ・オバ 文明の終わり』
いいなぁ〜。こう来てほしいところにちゃんとこう来てくれる陰鬱SF。ディストピ地獄巡り。ぽつんと1人で観て人に話して『そんな映画全然知らない!本当にあんの?夢じゃないの?』とか言われたい。音楽もプログレで最高。
『ゴーレム』
社会主義ポーランドで、検閲下で描かれた暗黒SFである。当然一筋縄ではいかない。
人造人間(ゴーレム)であるペルナートが唯一まともな人間に見えるアイロニーは、秀逸である。
生き物のような廃ビル、破壊される人形、吊るされた男などの隠喩は、人間性の回復を求めるシュルキン監督の魂の叫びだ。
SFとは、最新テクノロジーや未来世界への警鐘、もしくは現文明社会への批判を目的に発明された擬装装置(メディア)だった。民主化される前の社会主義体制下のポーランドで産まれたこれらのSF作品は、スペースオペラやファンタジーではない。当時の彼らの内省的な“叫び”が重層的、重奏的に埋め込められている。ピョトル・シュルキン監督による40年以上も昔の正真正銘のディストピアSFを再発掘する。そこには”時代”のタイムカプセルを開けるのと同じ興奮と発見が待っているはずだ。そして、この閉塞化した日本の現代人たちにも、その“叫び”は時を超えて大きく響くだろう。観るがいい。これがSFの”叫び“だ。
ポーランド映画界きっての異能監督ピョトル・シュルキンの作り上げた四部作は、当時の社会主義体制下の暗鬱かつグロテスクな世相を鋭く切り取っていると同時に、21世紀の今観てもSF映画として一切古びたところが感じられない奇跡の作品群である。真のSFマインドとセンス・オヴ・ワンダーに溢れた、古今東西のディストピア映画の最高峰がここにある。シュルキンの幻視した暗黒と絶望の未来社会をとくとご覧あれ!
独自の美学に貫かれた画面構成のなかで繰り広げられる、グロテスクで不条理な物語の数々。中欧の社会主義国特有の、政治や社会をめぐるさまざまな諷刺的寓意がそこには重ねられているのだろうか。同時に、諷刺には抑圧された人間の生の条件をめぐる思索や問いかけがまとわりついていくようでもあり、多義性はいつしか普遍性を獲得している。これらの映画がポーランドで、『ブレードランナー』や『未来世紀ブラジル』と同期しながら製作・公開されたことの意味を考えてみてほしい。
『ゴーレム』
『地球に落ちて来た男』の3年後、『未来世紀ブラジル』の6年前。日本では最初の『機動戦士ガンダム』が放映されていた頃。ポーランドではこんな哀しき人造人間のディストピアが撮られていたなんて。ゴーレム伝承やタロットカードの「吊るされた男」の寓意も興味をそそる、怖くて勇敢な映画。
SUPER PORNO / EXTRA PORNOのネオンが照らす共産圏の映画館。ダウンを着込んだ銀塗りの火星人。外国人なのに自分の血液型を知っている人たち。ギャラクシー・ファー・ファー・アウェイの世界でありながら、どこまでもリアルな冷戦下のポーランドの現実。“火星人さよならコンサート”のロックが体制をシュートする反骨の一撃は、いかなるCGよりも痛烈だ。